久しく更新しなくてすみません
最近ある人との会話をきっかけに「教えるということ」について真剣に考えることがあったので
その考察、および意見をここに書かせていただこうと思います
「教えるということの考察」 Rivers
教えるということのあるべき姿を考えるとき
そこにはディスカッションという存在を拭いきれない
ディスカッションのイメージについては後付をみてもらいたい
私はある人にこのような趣旨の発言をされたことがある
"教えられる側なんだから、あーだこーだいわずに素直に聞け"
このとき、私は「あぁ、なるほど」と思わずにはいられなかった
人々のなかには"教える側=絶対的な強者"という構図がはびこっているのだろう、ということを改めて理解したのだ
おそらくそれは学校教育に日本や中国などのアジアに元々ある師の絶対性が交わって普及したのだと思われる
学校教育では教えられる側は常に無知に近い状況にある
よって意見することなどまったくできない
しかも学校で教えられるものは「絶対的といえる解法」が存在しているのだ、議論の余地などあるはずがない
しかしその状況をほかの"教える"ということに当てはめてしまっていいものだろうか?
この世には絶対的な答えなど見つけられないものばかりなのだ
"教えるもの=絶対的な強者"という構図は、意見を磨き上げるのには邪魔なだけなのだ
意見の発展がそれ以上なくなってしまうからだ
教えるという本来の姿は
"教える側の知識、考えに教えられる側が反論、意見する"
これを繰り返していくものではないかと思っている
反論というと聞こえが多少悪いが
この反論というものは"自分の意見を述べる"という高貴なものであることを理解してほしい
そして相手の意見を聞いた上で教える側がリードをする、たとえば「なるほど、だけどね〜」や「いや、それはおかしいよ」という風にだ
ここで相手の意見を聞いて「素直になれ」や「黙って聞いていろ」の類の言葉をかけることは奢り高ぶっているといわざるをえない
なぜならそこの言葉のコアには"自分は絶対に正しい"という確信があるからだ
教える側がまだ技術、知識として完成していないならなおさらそうである
自分の知識に絶対の自信があるなら、相手の意見など
相手が納得しうる理由を提示することで説けるものなのだ
それができないから奢り高ぶった言葉をはっするとでもいえるのだろうか?正直なところを言うと、私はこの手の文章を書くのが苦手なのでボロボロになってないか不安だ
ひとつ忘れていた
さっきの、「意見のぶつけ合いと見つめあい」それを教えるとするならば
「教えるということは、教わるということと同義である」ともいえる
異なる2つの意見を組み合わせたとき、異なる意見を"教わる"ことになるからだ
これは意見の量が増えるという面でとても有意義なものといえよう
教える側のおごりは、この自分自身にふりかかるチャンスさえ消してしまうのだ
ずいぶん長くなってしまいました・・・
このような長い文章を書いても読まれないと思うのですが
これを一読してくれた人、ありがとうございます
後付